60年代の伊藤史朗・高橋国光、70年代の片山敬済・金谷秀夫の活躍以降、WGP(ロードレース世界選手権)は長い間日本人ライダーの前に立ち塞がる厚い壁だった。
86年に平忠彦が250ccで一勝を挙げたのを唯一の例外として、どうしても表彰台の真ん中に手が届かない。
「日本のマシンは世界一、だがライダーは世界に通用しない」
いつしか定着したこの汚名を返上するのは93年の原田哲也による日本人初の世界タイトル(250cc)獲得※1、及びそれ以降堰を切ったように始まった日本勢の怒涛の快進撃※2まで待たねばならなかった。
清水雅広はその「夜明け前」に当たる80年代後半に世界を相手に孤軍奮闘していたライダーだ。
色白メガネで繊細そうな笑顔からは想像もつかないが、ルカ・カダローラやシト・ポンスといった世界トップレベルの猛者を相手に一歩も引かず渡り合いながら世界を転戦していた、(平が第一線から退いてからは)日本人唯一のWGPフル参戦ライダー。
2位、3位を窺う機会は何度かあるものの、どうしても表彰台の真ん中には立つ事が出来ない。
当時はネットもなく、ローカル局であればTV放送もない。国内ではあくまでマイナーなロードレースのリザルトなどもちろん新聞に載る筈もなく、田舎の学生だった自分の情報源は雑誌のみ。
発売日ももどかしく手にとったその誌面で伝えられるWGPのリザルト、250ccクラスにフルエントリーしている清水の名は常に上位に見つける事が出来るのだが、しかしその一番上に見る事だけは決してなかった。1/1000秒差(!)でラインハルト・ロス※3に敗れ2位に終わった89年チェコスロバキアGPのリザルトを悔しそうに伝える誌面は今でもよく憶えている。
初勝利は時間の問題と思われながらも最後まで優勝に縁がなく、後続の黄金世代ともいうべき原田・岡田・青木らがWGP参戦を開始するのと入れ替わるようにしてひっそりと引退した清水選手が、バイクと全く関係ない家業の建築業を継いだと聞いたのはもう20年近く前になる。
そのかつてのヒーローの名をこういう形で再び目にする事になるとは実に残念だ。
これは専ら被害者からの告発という形ではあるものの、(被害者の弁によれば)既に裁判で決着がついている話であれば「一方的な意見」というにはあたらない。
手抜き工事の酷さもさる事ながら、賠償金支払いを命ぜられながら夜逃げ同然で姿を消しその責を逃れるなど言語道断で、事実であればプロとして以前に人として決して許せるものではない。施主のやり場のない憤りを我が身に置き換えてみれば、(幸いにして)他人事ながらも腸が煮えくり返る心地すらする。
多くの場合、施主は一生かかって支払う借金を背負って家を建てる。その家を滅茶苦茶にされるという事は、施主の一生を滅茶苦茶にされるのにほぼ等しい。絶対に許すことは出来ないのだろう。※4
彼の事情など知らないし、知りたいとも思わない。ただ明らかなのは、これで二度と陽の当たる道を歩けなくなったばかりでなく(それともまたどこかでそ知らぬ顔で会社を興すのだろうか?)、輝かしい栄光を拭い去ることの出来ない汚辱に塗れさせてしまった愚かな男がいたという事実だけだ。
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※1 77年に350ccクラスタイトルを獲得した片山は正確には「日本出身のライダー」。
※2 坂田・青木が2回ずつ、加藤と青山が1回ずつタイトルを獲得し、その他ライダーによる優勝や表彰台獲得は数え切れない。特に90年代後半の数年間は日本勢の黄金期、WGPの一大勢力として正に旭日昇天の勢いであった。
※3 1989年チェコスロバキアGP、優勝ラインハルト・ロス、1/1000秒差で二位清水。当時のWGPファンなら誰もがそらんじているリザルト。
※4 もしこれが自分の話であればHPで告発なんていう行儀のいい方法ではなく、手段の合法非合法を問わずに草の根分けても見つけ出して復讐を果たすに違いない。
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