9.24.2015

下町小散歩(高田馬場)

バイクのアイドリングがどうも安定しないので修理に出す。
下落合にあるショップにバイクを預けると、帰りはバス停まで高田馬場の小路をぶらぶらと歩く。


夕暮れの神田川

道すがら銭湯を見つけたり、


 西の空に半月が浮かんでいるのを見つけたり


ちんたらちんたら二十分ばかり歩いて出た商店街にゴールのバス停


何もない平穏な初秋の一日。


9.23.2015

東北GT(6)米沢未着で完

次の目的地の上杉神社と上杉家廟所がある米沢へは遠野から約270km。高速道を乗り継いで約4時間の道程だが、東京からむつまでを一日で走破した身には最早どうという事のない距離。一気に走り抜いて…走り抜く筈が思わぬところで頓挫。
東北道を走る事二時間余り、仙台を過ぎた辺りで走行車線の数台を追い越し車線から一気に抜いた瞬間に排気音が劇的に変化、
ボボボボボボバリバリバリバリバリバリバリバリ
と思いもかけずバリバリ伝説。慌てて最寄のPAに飛び込んでボンネットを開くと、あーあ。


熱と振動に耐え切れなくなったのだろう、エンジンから40cm程のところで四本の排気管を後続に繋ぎ止めているスプリングが全て弾け飛び、四本とも見事に外れて直管仕様。
こうなっても当面走る事そのものには差し支えないのだが、何せ直管なものでそりゃあもううるさいわ臭いわ、サーキットか暴走族の集会でしか聞けないような爆音で乗り込んで米沢の町をお騒がせするのは本意ではないので、この時点で東北グランドツーリング終了を決断。

耳をつんざく反社会的な爆音を響かせながら帰路に着く姿も普段自分が蔑みの目で見ている中年暴走族そのもので恥ずかしいやら情けないやら、出来るものなら半紙に

無罪 故障

と墨痕も鮮やかにしたためて車体の前後左右に貼り付けたい。人は悲しみが多いほど人には優しく出来るとどこかのロン毛のおっさんが歌っていたが、ということは彼の人生にはあまり悲しみはなかったのであろうが、まあそれは置いておいて、これに懲りて今後街で爆音を響かせている車を見ても「けっ」と言う前に「ああ、あれはもしかして故障なのかも…」という目で見るようにしようと思えたのが今回の過酷な旅路の収穫。何だろうなこの結論は

9.18.2015

東北GT(5)遠野2



バケツをひっくり返したような大雨に見舞われたのは呼ばれ石の祟りか、翌朝になっても雨の勢いは衰えず。
この日の宿の駐車場が屋根つきであったのは全くの偶然だが思わぬ僥倖。後付のハードトップは上から横から容易に雨が浸入するので、青空駐車であったなら一晩で水没してしまうところだった。

早朝に宿を引き払うと、大雨の中を残りの見どころを廻る。

雨の卯子酉様


どうやらここが天神様の森の入口

今でも年に一度子供達が奉納に来るらしいが怖いだろこの細道

細道を抜けると鳥居、その奥に小ぢんまりとした天神様の祠

思い切りガスってる遠野の里

古参道の鳥居


土砂降りで川のようになっている道をざぶざぶと水しぶきを上げながら走り回り、一通り見て廻ると昼前には遠野を出立。一路南下し米沢へ向かう。

9.15.2015

作業メモ:タオルバー交換(四年ぶり二度目)

同素材のマイナスねじがよく似合う。ただし普通のドライバーでは留められない位置関係

新任の三代目タオルバーは先に着任した二代目トイレットペーパーホルダーとのコーデを意識し、同じ素材に同じようなエッジの効いた形状を選択。
尤もこれはビンテージ物ではない新品なので色合いに深みがない。ピカピカ過ぎて浮いている。
コーティングの施されていない表面がこれから徐々に酸化して彩度の低い渋い色合いに変わっていくのが今後のお楽しみ。


9.13.2015

東北GT(4)遠野1

カミ(神ではない)の存在は信じていても妖怪は御伽噺の中だけの存在と決めつける人が多いのはなぜだろう。天狗が山のカミでもあると同時に妖怪でもあるように、また河童が妖怪であると同時に川のカミでもあるように、突き詰めて考えればいずれも超自然的な力を持つ両者の違いはよく分からない。光があれば影が出来るようにこの二つは表裏の存在であり、本来善も悪もない昆虫を人間の都合で益虫だの害虫だの決め付けるように人間の都合で畏れ祀ればカミ、恐れ忌避すれば妖怪となるのに過ぎないのかもしれない。であればやはり、神社に参拝する信心があるのに妖怪の存在を一笑に付すのはおかしいという事になる。
とはいえ、個人的には妖怪はもういないのだろうと思う。誰もその存在を信じなくなったからだ…



ハンドルを握りながら目的地に因んだテーマで取りとめもなく考えを巡らせば、蒸し風呂のような車内でも少しは気分が盛り上がる。
平泉から北東へ180kmばかり走れば遠野。



遠野物語の舞台として知られる遠野市には日本の原風景が残されていると言われているが、とはいえ日本には昔から漁村もあれば都もある。しかし昔の日本は農業国であり今も昔も国土は山だらけであることを思えば山間の農村の原風景≒日本の原風景であるには違いない。







まずは河童が棲んでいたという伝説の残る河童淵へ。
改心した河童が化身したという世にも珍しい河童狛犬はすぐ傍にある





あのー、僕の頭にあるのは皿なんで。賽銭箱じゃないんで。小銭入れるのやめてもらっていいすか


未だ現役で使われている山口の水車小屋。
この小屋の中には決して足を踏み入れてはならない、足を踏み入れた者には必ずや災いが起こると言われている。

言われているというか、言っている。その伝説の発祥は他でもない自分。
どのような災いかといえば、具体的には蜂に刺される。その凶暴さたるや、足を踏み入れた途端に襲われて五秒で三箇所も刺されたのだから恐ろしい。災いのおこる山口の水車小屋、ゆめゆめ忘るべからず

扉が開いたままなのは閉める間もなく転がり出るように逃げ出したから

遠野市は東京23区より広く、しかも見どころはあちらこちらに点在しているので、見て廻るのに車は欠かせない。
看板が出ているわけでもないのでナビも欠かせない。しかし多くはナビに登録されているわけでもないので何となくあたりをつけて移動しては近辺を探し回る作業を繰り返す。
予備知識なく訪れる遠野はただの田舎。
現在まで残る旧跡を、それに纏わる伝説と重ね合わせて見てこそ面白い。



田んぼの真ん中にぽつねんとあるのがフォトジェニックな荒神神社。タイソンもびっくりの耳噛み伝説

老母を背負った男のレリーフが取り付けられた欄干の橋を渡るとデンデラ野。
ここはいわゆる姥捨て山で、六十歳になった年寄りはこの野原に捨てるという風習があったという。捨てられたとはいえすぐ死ぬわけでもないので昼は里に下りて来て農作業を手伝い、報酬として僅かばかりの食物を貰ってはこの野に戻る。デンデラ野に捨てられた年寄りはそうして身を寄せ合いながらひっそりと命が尽きるのを待ったという。また一旦捨てられたら例え姿を見かけても存在しないものとして扱われたというからなかなかにきつい話だが、現代の物差しで当時を測ってはいけないというのが歴史を見る際のお約束。栄養状態のいい現代でこそ六十歳はまだまだ若いといえるが昔日の六十歳は名実ともに立派な年寄り、生産年齢から外れ食い扶持を減らすだけの存在は捨ててしまわなければ共倒れになりかねないというのが貧しい農村の実態でもあったのだろう。

野生動物のように過酷な運命を抗いもせず従容として受け入れた昔の遠野人はすごいと思ったが、昔の日本には現代のような移動の自由はなく生まれ育った村が世界の全て、しかも共同体に属さなくては生きていけない時代※1でもあった訳で、考えてみれば受け入れる他選択の余地はない。現代に生まれて良かった


デンデラ野




車がびゅんびゅん行き交う幹線道路脇にある大きな岩は通称呼ばれ石といい、農作業中に遠くから呼びかける声を真似て声を発したり呼びかけに勝手に返事をしたりという悪戯で村人を悩ませたが、村人に頼まれた猟師が猟銃で一発撃ち込んだら大人しくなったという曰くのある岩。九条教信者が聞いたら目を剥きそうな解決手段がいかす

殆ど歩道もない曲がりくねった山道沿いなので見る際は車に注意

今も残るというその弾痕を探そうと岩に取り付いて見たもののそれらしい痕は見当たらず、そうこうしてる内にバケツをひっくり返したような土砂降りに見舞われたので本日はこれまで。

呼ばれ石に呼ばれたまま一向に帰ってこない主を呆れ顔で待つ車


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※1 機械化されておらず家造りも子育ても作物作りも村人同士で助け合わなければ何一つ遂行できない時代の「村八分」は現代では想像できない程重いペナルティであり、殆ど死刑宣告に近い


9.05.2015

東北GT(3)平泉


秋田から再び太平洋側へ280kmほど走れば平泉。岩手は高速道や新幹線でスルーしたことはあっても足を踏み入れるのはこれが初。

平泉といえば奥州藤原氏三代プラス1の亡骸が安置されている金色堂。
金色堂を擁する中尊寺の開山は850年で祖は慈覚大師…円仁?この人恐山も開山してたよな。今から1000年以上も前にろくに街道も整備されていない奥州を徒歩で廻って、言葉が通じるかも怪しい現地人を教化してあちらこちらで開山をプロデュース。尋常でないバイタリティっていうかほぼ超人の域。その労苦を思えば35度の炎天下をエアコンのない車で走るくらい大した事ではない…嘘です大した事ですすみません



薬師堂

多くのお堂を擁する広大な境内の一番奥に金色堂は位置する。藤原清衡、基衡、秀衡の三代の亡骸と四代目泰衡の首が安置されている金色堂は建坪五坪程度の小ぢんまりとしたお堂だが、床下の柱まで張り込まれた64000枚もの金箔、柱や天井27000箇所に施された螺鈿※1、さらに海外から取り寄せた紫檀やアフリカゾウの(!)象牙だのが各部に惜しみなく使用され、同じ金張りという事でよく同列に挙げられる鹿苑寺金閣に比較してサイズこそ小さいが仕様の凝り様は遥かに上を行く。当時の人々にしてみれば宇宙船が出現したような衝撃であったろう。日本の他に国がある事もあまり分からない時代の人にとってのアフリカゾウの象牙など、今の我々にしてみれば金星の石みたいなもの。想像の枠を超えている。
12世紀にこれだけのものを、しかも日本を統べる将軍でもない一地方領主が作ってしまう。尋常でない財力と海外とのネットワークを持っていたであろう事は想像に難くない。貧富の差どころの騒ぎじゃない。

そんな栄華を誇った藤原氏も四代目がちょっと残念な御方だったため敢無く滅亡、伴って中尊寺も悉く灰燼に帰するわけだが、頼朝の軍勢もさすがに金色堂だけは手をつけなかったお陰でこの国宝第一号も現代まで無事に遺された。幕府軍がパルミラを爆破したイスイス団のようなキチガイ集団じゃなくて良かったねと

現覆堂
鉄筋コンクリートの覆堂(カバードーム)が出来る前に金色堂を風雨から守っていた覆堂は現覆堂の更に奥に移設されて保存されている。鎌倉時代に作られた旧覆堂もまた文化財指定

旧覆堂
旧覆堂内部

中尊寺の境内には白山神社もあり、併設されている現在でも偶に使用されるという茅葺きの能楽殿が見事。そして横で見ていたカップルの、見た目はごく普通の男の方の発言
「能?ってさー。今でも、まだ、あるの?
に驚愕。




35度の眺め。角度じゃなくて気温。
この辺は33度くらいかなー(しつこい)

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※1 普通は箱や茶入れなど小物にちんまりと施される細工であって、建築物に使いまくるなんて前代未聞。なんという贅沢