メディアに紹介される「建築家の家」は実にカッコよく、カッコよすぎて「人が住まない方がいいんじゃないか」と思ってしまうような家が多かったりするのだが、その逆に、「人が住んで初めて足りる」という家もある。
家が完成した。だがどこか物足りない感じがする。
そうだ人が足りない、生活が足りない。
最後のピースとして施主が家主として暮らし始めて、初めて家としての完成を見る。
例えばS氏のつくる家はこちらに該当する。
それを確信したのはマニハウスにお邪魔した時、
これは正しくMさんご一家が加わって初めて完成した家だと感じた。
他の誰が入ってもマッチしない。
自分のようなひとり者が入ってもおかしいし、微妙な仲のご夫婦が入居しても恐らくしっくりとはこない。
楽しいMさんご一家の為だけに作られた家。他の誰にも合わないのだ。
そもそも、注文住宅の本義とはそういうものではないだろうか。
ギミックと工夫を凝らした家よりもクールでフォトジェニックな「作品」よりも、
ただ他の誰にも合わない、自分の為だけに作られた家。
それを我が物にする事が施主の何よりの喜びではないだろうか。
これは家が出来る前から自分の中にあったもやもやとした感覚が(あたかもイザナギの鉾から滴り落ちた雫が島となって固まったように)ゆっくりと形となって浮かび上がったものであって、初めから確固たる考えとしてあったものではない。
だがなぜS氏に家づくりを依頼したのか、今になってよく分かる。
野暮ったい家は嫌、かといって少しの隙もなく、単体で完結してしまっているような家も癪だ。
あくまで主人である自分を立てながら、ビスポークのスーツのように自分の身体にフィットする家がいい。
そういう我儘な欲求を抱えた施主がいて、それを形に出来る設計者がいたという事なのだ。
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